2023.07.07

Pear Therapeutics社の破産から考える医療のデジタル化の未来

皆さんこんにちは。サナメディの事業開発メンバー、循環器内科医の小林です。
2022年に『英国大使館主催のデジタルヘルスイベントから読み解く最新デジタルヘルス事情』で英国デジタルヘルス・スタートアップについて当ブログでご紹介致しました。あれから1年が経ちましたが、その後もヘルスケア領域でのデジタルヘルス開発は盛んに行われており、サナメディでもコンサルティング専門チームを立ち上げ、企業の新規参入等を支援しています。

そんな中、今回は最近のニュースや研究から読み取れるデジタルヘルスのトレンドについてお話したいと思います。

 

デジタルセラピューティクス(DTx)とは
まずは周辺用語のおさらいです。

デジタル技術を用いた医療への活用は広く”デジタルヘルス”と総称されます(1) が、そのうち薬事規制上、単体で医療機器として機能するソフトウェアを”Software as a Medical Device (2) (プログラム医療機器、以下、SaMD)”と呼びます。
デジタルセラピューティクス(Digital Therapeutics、以下DTx)は明確な定義はないものの、そうしたSaMDのうちデジタル技術を使った治療(3) を指すことが一般的です。

デジタル技術を活用することで、より安価に効果的な医療が患者に届けられる可能性があり、海外でも多くの企業が開発に取り組んでいます。日本では、株式会社CureAppのニコチン依存症治療アプリ高血圧症治療補助アプリまた、サスメド株式会社の不眠障害用アプリなどがDTxに近いSaMDとして承認されています。

 

Pear Therapeuticsの破産からみるデジタルヘルスの課題
2023年4月7日治療用アプリの開発・展開を行う米国上場企業Pear Therapeutics社が破産を申請しました。同社は慢性不眠症改善アプリ『Somryst®』やオピオイド使用障害(OUD)の治療補助アプリ『reSET-O®』をはじめとして多数の処方箋型アプリを世に出してきました。

治験を行い、FDAの承認まで受けている製品であったにも関わらず、約1270万ドル(約17億6000万円)の売り上げに対して1億2340万ドル(約171億円)の営業損失を計上していた(4) というのです。

このニュースには驚いた方が少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。
なぜDTxの先駆者的存在であったPear社は破産申請に至ったのでしょうか。

 

先駆者ならではの開拓コスト
治療用アプリは医薬品に比べ、開発期間も短く、費用も少なくてすむのがメリットと考えられています。
しかし、実際には、新しい治療方法を世の中に広めるためには、これまでの診療方法を変えていく必要があり、そこまで簡単ではありません。

製品を周知させるための営業販売活動や、医療上のメリットを医師に理解してもらうための情報(いわゆるクリニカルエビデンス)が必要であり、開発して承認を得る以外にも多くの費用を要するのです。医療従事者にとっても、患者にとっても、治療費というのは大事な問題であり、この治療用アプリを広く流通させるために、Pear社は保険償還を訴求しました。

保険償還の流れとして、例えば医療者が胆石症の患者に腹腔鏡で手術を行った際に、保険者に対して「腹腔鏡下胆嚢摘出術」を実施した旨の報告が必要になります。アメリカではそうした特定の医療行為一つ一つにコード(CPT/HCPCS code*)が割り当てられ、それに基づいて保険償還がなされます。


*HCPCSコード/CPTコードについて
どちらも医療者が実施する医療サービスを定義するコード。CPTコードは米国医師会によって、HCPCSコードは米国政府機関のMEDICARE/MEDICAIDサービスセンター(CMS)によって策定される。HCPCSコードのレベルⅠはCPTコードと同じ内容となっているが、HCPCSコードレベルⅡは、救急車、車椅子、その他の耐久性医療機器など他のサービスをコードする。つまり、CPTでは医療行為をコードするが、HCPCSはその医療行為に使用される製品および医療機器のコードもカバーしている。
(参考URL:https://www.medicalbillingandcoding.org/hcpcs-codes/)

しかし、アプリでの精神疾患治療は今までになかった医療サービスになるため、Pear社はアプリでの治療が医療行為/処置であるというコードを生み出すところからスタートしなくてはいけませんでした。そのため、Pear社は下記のステップを乗り越えなければならなったのです。

①臨床研究等でDTxのエビデンスを作る
②その医療行為のコード策定のために関係機関に申請し、コードを獲得する
③各保険者に、それらのコードに基づいた保険償還の認定を受ける

Pear社は同社の治療用アプリについて保険償還の獲得を目指して働きかけた結果、最終的に技術料コードの取得と、いくつかの州でアメリカの2大公的保険の一つであるMEDICAID(公的医療保険)の償還を得るという快挙を成し遂げました。

その一方で、それらには多大な費用と時間を要しました(例えばフロリダ州でMEDICAIDに加えられたのは破産申請の3カ月前です)。こうして多くの初期費用が嵩んだこと、目標達成が遅かったことで誤算が生じ資金繰りが悪化したと考えられます。

とはいえ、規制当局からの承認・保険償還の認可取得が得られれば、やがて経時的に売り上げを見込めて破産に至らずに済んだのではないかという疑問が生じます。しかし、Pear社の年次報告書(5) を読み解くと、それでも厳しい状況があったであろうと推測されます。
同社のアプリに対して処方数が45,000以上もあったにも関わらず、実際に使用された処方はその53%で、そのうち支払いを受けたのはたったの41%だったというのです。

 

処方されてもなお存在するハードル
なぜ、全体の処方数のうち半数の患者しかアプリを利用しかなかったのでしょうか。

この数字、実は他の企業でも見られています。例えば注意欠陥多動性障害(ADHD)の治療用ゲームアプリを販売している米国のAkili社の報告書では、処方の数に対して履行された割合は49% (6) となっています。

両社に共通する要因として、医薬品と比べて治療用アプリでは患者の利便性に差があることが原因である可能性が考えられます。一般の薬であれば調剤薬局等に処方箋を持参し、そこで薬が調剤され、患者は手にした薬を内服するという至ってシンプルな過程です。しかし、Pear社の治療用アプリの場合は一般の治療薬とは異なり、アプリ処方の取り扱いが可能な薬局は限られたオンライン薬局(5) のみでした。

さらに、治療用アプリはその特性上、患者が取り扱い方法を理解し、登録開始のアクティベーションコードを確認・入力などの手続きをすることで初めて使うことが出来ます。デジタル薬局では、大手ドラッグストア等のサービスのように患者が対面の説明を受けることは出来ず、患者によっては、ITリテラシーの低さや面倒な手続きから、使用開始をためらう事もあったと考えられます。

米国では人口の85%がスマートフォンを所有するにもかかわらず、高齢者や低所得者層はそのようなデジタル治療薬を扱えるデバイスやOSを入手できない可能性があるといわれています(7) 。奇しくもPear社に限って言えば、治療のターゲットはMEDICAIDの被保険者、つまり低所得者層でした。こうした要因が、患者のエンゲージ率を減らしてしまったのかもしれません。

 

アメリカにおける保険償還戦略の難しさ
患者の使用率の低さにも課題がある一方で、まだ疑問が残ります。それは、せっかくアプリを使用してもらったのに、たった41%しか支払いを受けていない点です。この背景を理解するためには、米国の複雑な保険償還のシステムについて知る必要があります。

日本では国民皆保険で「被用者保険」「国民健康保険」「後期高齢者医療制度」のという違いはあるものの、ひとたび保険償還が決まれば全ての保険で一律の保険償還となります。一方、米国の公的保険の普及率(8) はMEDICARE(高齢者向け)でおよそ18.4%、MEDICAID(貧困層向け)18.9%であり、その他半数以上は民間保険等でカバーされます。米国の民間保険は多くの選択肢があり、保険会社により支払の基準が異なります。つまり、MEDICAREやMEDICAIDで保険償還が決まっても、民間保険で保険償還がされるとは決まっていません。また金額についても保険会社によって異なります。この制度では逆に公的保険で保険償還がなくても民間保険では保険償還がなされるということも起こりえます。実際に治療するアプリとしてFDAが初めて承認したWelldoc社の糖尿病治療用アプリは公的保険で保険償還がされていませんが、いくつかの民間保険会社が保険償還をしています。

 

公的保険独特の壁
Pear社は貧困層向けの公的保険であるMEDICAIDで保険償還を獲得しました。これはSaMD業界において大きな一歩であったことは間違いありません。しかし、それだけでは手放しで喜べるものではない複数の要素があります。
まず、アメリカは州単位で保険償還の管轄が異なります。そのため、日本の保険償還とは違って、いくつかの州の保険償還を取れても、アメリカ全体が市場になったわけではありません。また、他の保険と比較するとMEDICAIDは償還される金額が少ない(9) ことで知られており、運営する州ごとでも判定基準が大きく異なります。そして、公的保険全体の保険償還を狙っていたにもかかわらず、もう一つのMEDICAREでは保険償還が得られませんでした。

 

保険者(支払者)を納得させることがカギ
保険償還の獲得に苦戦を強いられたのは十分なエビデンスが無かったからでしょうか?
答えはノーです。

Pear社はそれまでに、RCTを含む40以上もの臨床研究を発表しており、これらは規制当局であるFDAの認可を受けるための安全性/妥当性を示すのには十分なエビデンスでした。しかし、価値の訴求という観点では同じようにはいかなったのです。
保険者は基本的に支払額を安く抑えたいという思惑があります。つまり、トータルで見たときに既存の治療よりも安価に健康的でいられるソリューションであると確信できたときに、保険者は医療サービスに対して支払いを認めるのです。

Pear社の治療用アプリは医薬品の経済性評価を行う団体であるICER(Institute of Clinical and Economic Review)のレポート(10) で、「現在の価格では長期的な費用対効果が低い」と報告されてしまったのです。ICERは第3者の視点から新規医薬品の適正価格を算出し報告している団体です。医薬品価格の番犬とも呼ばれており、この評価の影響は大きかったのではないかと予測されます。

その後、Pear社は製品が医療コスト削減を示す研究(11) を発表するなど、そのイメージを払拭する取組みを行ってきました。しかしながら、①治療用アプリの高額な価格設定(3か月の使用で平均約14万円)、②サービス単体で治療できるわけではない(他の外来治療の追加補助として使用する)という特徴などから、経済性に慎重な保険者(支払者)に費用対効果に優れた治療であると納得させるのは難しかったのです。

 

Pear社が破綻した本当の理由は何なのか
治療用アプリは未来の医療だという空気感の中で、業界のトップを走っていたPear社の破綻は我々に多くの衝撃を与え、様々な疑問がわいてきます。

・今後DTxが普及するために必要なものは、より革新的なエビデンスなのか?
・行動変容を促す治療では処方薬に勝てないのか?
・価格が問題なのか?
・これまでに無かったものを医療界が受け入れるのに単純に予想以上の時間がかかるのか?

など考えると、簡単にDTxが未来の医療だと言っていいのか、いささか疑問になってきます。
さて、そんな折に、興味深い論文があったため、次のブログでご紹介いたします。

 

参考文献・引用元(URLは2023年7月7日時点)

1 FDA, “What is Digital Health?”, 2020年9月22日
https://www.fda.gov/medical-devices/digital-health-center-excellence/what-digital-health

2 International Medical Device Regulators Forum, “Software as a Medical Device (SaMD)”, https://www.imdrf.org/working-groups/software-medical-device-samd

3 Todd Hixon, forbes.com ,“Digital Therapeutics Have Huge Promise And They Are Real Today”, 2015年12月9日, https://www.forbes.com/sites/toddhixon/2015/12/09/digital-therapeutics-have-huge-promise-and-they-are-real-today/?sh=4d35727c26f0

4 Katie Jennings, forbes.com ,” Pear Therapeutics Files For Bankruptcy As CEO Blames Shortfalls On Insurers”, 2023年4月7日, https://www.forbes.com/sites/katiejennings/2023/04/07/pear-therapeutics-files-for-bankruptcy-as-ceo-blames-shortfalls-on-insurers/?sh=2efdeef32bd6

5 UNITED STATES SECURITIES AND EXCHANGE COMMISSION, Pear Therapeutics, Inc. FORM 10-K, For the Year Ended December 31, 2022, https://www.sec.gov/Archives/edgar/data/1835567/000183556723000018/pear-20221231.htm#i314e5111d658400ab7dce73a0dda6c41_142

6 UNITED STATES SECURITIES AND EXCHANGE COMMISSION, Akili, Inc. FORM 10-K, For the fiscal year ended December 31, 2022 https://s201.q4cdn.com/524504872/files/doc_financials/2022/q4/b70a1a5d-b856-42a6-9d89-0ffac61e1f74.pdf

7 Christina A. Brezing & Diana I. Brixner, Advances in Therapy volume 39, pages5301–5306 (2022)”The Rise of Prescription Digital Therapeutics in Behavioral Health”,15 October 2022, https://link.springer.com/article/10.1007/s12325-022-02320-0#ref-CR22

8 Katherine Keisler-Starkey and Lisa N. Bunch, Health Insurance Coverage in the United States: 2021, Report Number P60-278, September 13, 2022, https://www.census.gov/library/publications/2022/demo/p60-278.html#:~:text=Of%20the%20subtypes%20of%20health,percent)%2C%20and%20VA%20and%20CHAMPVA

9 The Commonwealth Fund, Blog, “How Differences in Medicaid, Medicare, and Commercial Health Insurance Payment Rates Impact Access, Health Equity, and Cost”, AUGUST 17, 2022, https://www.commonwealthfund.org/blog/2022/how-differences-medicaid-medicare-and-commercial-health-insurance-payment-rates-impact

10 Institute for Clinical and Economic Review, “ICER Publishes Final Evidence Report and Policy Recommendations for Digital Health Therapeutics for Opioid Use Disorder”, December 11, 2020, https://icer.org/news-insights/press-releases/icer-publishes-final-evidence-report-and-policy-recommendations-for-digital-health-therapeutics-for-opioid-use-disorder/

11 Neel Shah, Fulton F. Velez, Samuel Colman, Laura Kauffman, Charles Ruetsch, Kathryn Anastassopoulos & Yuri Maricich , Advances in Therapy volume 39, pages4146–4156 (2022), “Real-World Reductions in Healthcare Resource Utilization over 6 Months in Patients with Substance Use Disorders Treated with a Prescription Digital Therapeutic”, 15 October 2022, https://link.springer.com/article/10.1007/s12325-022-02215-0